山間の鄙びた町・青松と世宗大王の妃・昭憲王后

今回は、山間の鄙びた町・青松(チョンソン)についてお話致します。青松郡は韓国南東部・慶尚北道の内陸にあり、四方をすべて7~800m級の山に囲まれています。東に頂上が奇岩で覆われた周王山(チュワンサン)と麓の古刹・大典寺(テジョンサ)、その南に人工池の注山池(チュサンヂ)があります。初夏には山つつじが、晩秋には紅葉がとても美しく、この町のシンボル的な存在です。

さて、韓国人が青松と聞いてまず思い浮かべるのが、ここを先祖に持つ一族、青松沈氏(チョンソン・シムシ)です。韓国は父系社会である事と儒教の影響により、家または代々父親から続く家系を大切にします。韓国人なら誰しも本貫(ポングァン)があります。本貫とは自分の家系の発祥地で、例えば全州(チョンジュ)が本貫の李(イ・リ)さんならば全州李氏、慶州(キョンジュ)が本貫の金(キム)さんなら慶州金氏となります。故郷と本貫が一致する家は少なく、数年前に逝去された金大中(キム・デジュン)大統領の故郷は木浦(モッポ)近くの島ですが、本貫は釜山(プサン)近くの金海(キメ)のように大概別々です。
青松沈氏は高麗時代から続く名門家系で、朝鮮王朝時代には領議政(ヨンイジョン=総理大臣)をはじめ数多くの政府高官を輩出しました。また、陶芸家で文禄・慶長の役の際に島津義弘によって日本に連れてこられ、薩摩焼を開いた沈壽官(シム・スグァン)も青松沈氏です。

しかし最も有名なのが、第4代国王・世宗(セジョン)大王の妃であった昭憲王后(ソホンワンフ・シムシ 1395~1446)です。昭憲王后は政府高官であった沈温(シム・オン)の娘として生まれ、13歳で第3代国王・太宗(テジョン)の第3子の忠寧大君(チュンニョン・テグン)の元に嫁ぎました。当初は一王族として暮らすのですが、王太子[世子(セジャ)]である長兄である譲寧大君(ヤンニョン・テグン)の素行不良に業を煮やした太宗が王太子を廃し、忠寧大君を新たに王太子に任命しました。この時から昭憲王后の悲劇が始まります。韓国は国王の妃の実家[外戚]が政治的に大きな権力を持つことが多く、時には国王を抑え込んで、政治を意のままに操るまでに権力が肥大化したこともしばしばでした。太宗はこれを恐れ、これまでに太宗の妃である元敬王后閔氏(ウォンギョンワンフ・ミンシ)の4人の弟をすべて粛清していました。今度は王太子妃の実家がその対象となったのです。太宗は父である沈温にあらぬ謀反の罪を着せ、水原(スウォン)にて処刑してしまいます。そして母をはじめ一族は奴婢にされてしまったため、昭憲王后は大変悲しみました。しかし、その後は舅たる太宗の事を恨まず、子供たちを育て上げ、世宗が王位についてからは内助の功で陰から支え続けました。今でも世宗大王と昭憲王后は韓国で最も人気のあり、かつ尊敬されています。

青松で沈氏ゆかりの場所は1428年創建で祭祀を行った楼閣・讃慶楼(チャンギョンヌ)、18世紀半ばに建てられた伝統家屋の松韶古宅(ソンソ・コテク)等があります。

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