日韓交流の架け橋『朝鮮通信使』

日韓交流の架け橋『朝鮮通信使』

今年は戦後70周年の年であると同時に日本と韓国が国交を正常化してから50年の節目の年でもありました。昨今の日韓関係は歴史認識問題や所謂従軍慰安婦問題の韓国側からの揺さぶりにより、日本の世論も嫌韓が広がるなどギクシャクした状態が続いています。しかし長い歴史を見ると日韓関係は一時期を除けばおおむね良好な関係を築いておりました。

皆様は朝鮮通信使をご存じでしょうか。
室町時代に3回、江戸時代に11回、朝鮮[当時の韓国]から日本に来た外交使節団です。江戸時代に限って言えば、日本人の多くはこの時代、鎖国をしていて外国との交流は長崎の出島で中国とオランダのみ行われていたと思っていますが、朝鮮国は徳川幕府、強いては当時の日本国が唯一正式な外交関係を持っていた国なのです。その他、当時の日本は薩摩藩を通じて琉球[現在の沖縄]、松前藩を通じて蝦夷地[現在の北海道]とも交易をおこなっていて合計5つの国や地域と交流がありました。

朝鮮通信使は当初は文禄・慶長の役[豊臣秀吉の朝鮮出兵]の戦後処理の為、その後は徳川将軍の代替り[将軍襲職]の祝賀の為にやってきました。首都の漢陽[現在のソウル]を出発した通信使は陸路釜山まで行き、船で対馬に渡りました。そこから関門海峡、瀬戸内海を通って大坂、京都まで船で移動しました。京都から江戸までは陸路で移動しました。
毎回500人前後の大集団で朝鮮国王からの国書を持参した正使、副使、従事官、製述官のほか、書記、通訳、画家、医者、学者[儒者]など様々な分野の人々が参加しました。20~30年に一度位しか来ない異国の集団だったので、日本中たいへんな話題になったそうです。中には中国直伝の学問を学ぼうと通信使が通る町まで出向き、学者に会うと筆談で日頃から鍛えた蘊蓄を披露し、相手からも説明を求めるという場面が至る所で見られ、日本の様々な文化に影響を与えました。
また、朝鮮通信使も直の日本を見ることにより、日本について思っていたよりも高い文化を持つ国であるという事を知り、それを帰国後、本国に伝えていて、真の交流があったことを物語っています。朝鮮から日本にもたらされたものは医学、暦学、天文学の書物、高麗人参や高級木綿など、日本から朝鮮へは絵屏風、刀剣、サツマイモ、唐辛子などを伝えました。
12回の朝鮮通信使の交流で、雨森芳洲[あめのもり・ほうしゅう]という対馬藩士がいます。彼は対馬や釜山で日韓外交の折衝に当たったり、通信使訪日の際にその一切を取り仕切りました。引退してからは日韓辞典をはじめとした書物を残し両国友好に努めました。

このように江戸時代の約200年は小さな問題はありましたが、総じて両国関係は良好でした。翻って現在、日本と韓国の間は様々な問題でぎくしゃくしていますが、継続して相手を理解しようとする精神があれば、きっと双方の知恵でひとつひとつ乗り切っていくことが出来るでしょう。

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