「道~白磁の人~」浅川巧の人物像に迫る

「道~白磁の人~」浅川巧の人物像に迫る

今回は現在、公開されている映画から日本の植民地統治下にあった朝鮮で両国の架け橋となった日本人を紹介いたします。

去る6月9日(土)から全国の映画館で『道~白磁の人~』が上映されています。物語はある日本人と朝鮮人の友情を中心に時代を追って描かれています。この主人公は実在の人物で浅川巧[あさかわ たくみ](1891-1931)という人です。

明治34年(1891)に八ヶ岳の麓、現在の山梨県北杜市に生まれ、学校を卒業すると秋田の林業試験場に勤務し、大正3年(1914)には、兄で小学校の教師(後に彫刻家)をしていた浅川伯教[あさかわ のりたか]がいる朝鮮に渡り、同じく京城(現ソウル)の林業試験場に務めます。
ただ、巧が渡った時代は、日本が朝鮮半島を植民地支配していた時代でした。そのような絶望的な両国関係にあっても、巧は少しでも朝鮮と分かり合おう、友情を深めようと努力し、樹木が過剰伐採され荒れていた山林を再生するために研究を重ねて、ついには植林に成功したのです。

ところが、昭和6年(1931)4月、巧は風邪をこじらせ、道半ばにして急逝してしまいます。その時、多くの朝鮮人が彼の死を悲しみ、葬儀に参列いたしました。巧が生前、いかに人々から慕われていたかを示すものです。現在もソウル市東部の共同墓地に眠る巧の遺骨は、韓国人の有志によって大切にされています。

巧の遺産は現在でも受け継がれています。韓国の山は緑に覆われていますが、その一部は巧の植林事業によって復活したものです。
また、民衆が使う茶碗などの白磁に魅せられ、当時は二束三文の価値しかなかったこれらを蒐集(しゅうしゅう)し、美術評論家で民芸運動を提唱・推進した柳宗悦[やなぎ むねよし]や伯教らと共に朝鮮民族美術館(現国立民俗博物館)を設立したのです。

両国の民衆同士が反目しあっていた時代にその架け橋になろうとした巧の行動は、困難を極めたことでしょう。ある国と国との関係は、先人達の行動が色濃く反映されたものです。問題を抱える現在の日本と韓国が、紆余曲折を経ながらも、比較的良好な関係を築きつつあるのは、互いの国と仲良くしたいという人々の努力によるものではないでしょうか。

「どんなに長い時間が掛かろうと、どんなに世の中が憎しみ合っても、それでも僕は木を植え続ける」

『道~白磁の人~』のメインテーマです。浅川巧は近現代史における日韓友好の先駆者であり原点なのです。

先駆者によって築き上げられてきた両国の関係ですが、今後もっとより良い関係に進めていくには、お互いの文化を理解し合うことが大切だと思います。それにはお互いの国を訪れ、それぞれの文化を肌で感じることが重要です。旅をすることで、文化を理解する。これは国際交流の大きな架け橋になるのではないのでしょうか。

山梨県北杜市ホームページ(浅川伯教・巧兄弟の紹介)
http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/komoku/manabu_asobu/bunkazai_geijyutsu/1308290721-1.html

映画『道~白磁の人~』公式サイト
http://hakujinohito.com/index.html